田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、熱中した事はありますか?

有田氏
昭和42年9月27日生まれ。
出身は長崎市です。
小学校の頃は体育が好きで小学校1年生から中学校3年生まで剣道の道場に通い、平衡して高校まで野球をしてました。
また、書道もやっていて小学校の時にはかなり熱心にやっていました。
長崎書道会の少年の部では最上有段者で5段でした。

田中
高校を卒業してお菓子の専門学校に行かれたんですか?


有田氏
高校を卒業して、大阪の辻製菓専門学校に入学しました。
母方の姉が二人大阪に居たもんですから、それがきっかけで大阪に行ったんです。その後、大阪の洋菓子店に就職しました。
修業時代に私が22歳でしたか、父親が急に他界しまして、急遽長崎に帰ったんです。
その当時は悩みました。
修業年数も中途半端だったし、親父ともよく相談していました。僕も30歳までは長崎には帰るつもりはありませんでしたし、その辺の修業のプロセスとか目標とか考え方だとか、もちろん最後の仕上げでヨーロッパに行くことも自分の視野にはあったので・・全然そんな早くに長崎に帰ってきて後を継ぐなんて発想もありませんでした。
その当時、妹も高校2年生で、お袋も一人だけになりますし、弟こそ居たんですが、もう東京に行ってたんで・・心配な面もあり・・「まぁ何とかなるやろう」と、ちょっと考え方が間違っていたんですが、実際帰ってきてしまったんですね。
修業を断念して自分のそれまで、たった3〜4年でやれるんじゃないかって変な自信も少しばかりあったんでしょう。

田中
長崎に帰ってきてからはどうでした?

有田氏
帰ってきてからは、苦労の連続で、ケーキは売れないし、あらゆる面でギクシャクして商売ということに関して勉強もしていませんでしたので・・私の場合は帰ってきてからヨーロッパにも行きましたし、経営しながらケーキ作りを学んでいったというタイプですね。
僕みたいな経歴の人っていないと思います。普通は最低10年くらい修業し、人を使うことに関してもある程度、経験があってお店を出すんですが、僕の場合は修業しながらのお店の経営でした。

田中
お菓子のアリタは創業時代から洋菓子屋だったんですか?

有田氏
いや、元々はカステラ屋です。
元は”お菓子処アリタ”と言う名前で地元では「アリタさん、アリタさん」と小さなカステラ屋さんで、なお且つケーキや和菓子の饅頭とかも出していたお店でした。
昔、長崎にはそういうスタイルのお店がたくさんあったんです。
今はほどんど無くなってしまいましたけど・・大体30年前はそういうお店が全盛期の時代でした。
長崎市内中には大手のカステラ屋さんで修業した人が分かれて、カステラが焼けるということはスポンジも焼けるわけですよ。
昔はスポンジにクリームを塗って簡単なケーキが全盛期の時代でした。

田中
アリタさんの創業は何年でしようか?

有田氏
1968年、現在の道の尾本店で創業しました。
今は道の尾本店は店舗だけになっていますが、昔はそこに小さな工場があって小さなお店だったんです。
今はたった10坪のお店ですけど、その当時、半分が工場で半分がお店、2階が住まいになっていて家族5人で生活していました。

田中
22歳で戻って来られて道の尾本店で始められたわけですね。

有田氏
そうです。
カステラ屋さんの跡取りっていう色彩が強い中、僕が帰ってきて、周りの人は「お父さんが不幸にも亡くなられたけれども息子さんが立派に跡を継いでくれてよかったね。」なんて思っていたでしょうね。
でもすごく親父がつくり上げてきたお客様に支えて頂いて、僕とお袋の二人で、まぁなんとか飯が食える程度の商売はしてましたけど、本当に厳しかったですよ。
売れない日は一日7,000円だし、売れても一日2万とか3万でした。
その中でお袋と二人生活費を出していくだけでも大変で借金こそ、そんなに抱えてなかったんでやれてたものを正直言って未来が見えなかったですね。
これぐらいの収入でこんなに朝から晩まで働いてお菓子屋をやっていても何も楽しくないな〜って・・
始めてお菓子屋になったのを後悔しましたね。

田中
現在は5店舗を経営されていますが、成長するきっかけは何かあったんでしょうか?

有田氏
22歳で帰ってきて、24歳の頃に僕はお菓子屋さんを辞めようと思ったんです。
2年間はあまりにも売れないし、お菓子屋を辞めて転職しようかと、確かに跡取りとして頑張ってきたけど修業年数も短かったし、限界じゃなかろうかと・・職業安定所に行って職を探していましたよ。
でも、そこで踏みとどまった気持ちとしては、その時代、なんで売れてる店は売れて、なんで僕だって1個1個美味しいケーキを作れているはずなのに売れないんだろうと掘り下げて考えてみた時に・・今でこそこういう偉そうな事を言えますけど、やはり商品のプレゼンテーション能力とか、アピールの仕方とか基本的な事が出来てないから売れないだけであって簡単に言えばお店を綺麗にすれば・・たとえば苺ショートを買う時にも綺麗なお店で買いたいでしょうし、小さなお店でもアピールできるやり方ってなんなんだろうと考えた時に商品の作り方が変わりました。

東京や大阪で学んできた真似事じゃなくて・・こういう商品を作ると長崎の人には受けがいいんじゃないかなぁと考えるようになりました。
あと、シュークリームが大ヒットしてうなぎのぼりに成長した会社なんですけれども、その当時シュークリームってコンビニにもそんなに置いていませんでした。
まだまだこれからコンビニが脅威になるって言われ始めている時代でしたから、なんかヒット商品を作ったら経営も楽になるという発想もあってシュークリームに力を入れようと思ったんです。
その当時、パイで包んだシュークリームを丁寧に朝焼きでパリパリの食感を大事に売っていくんだというコンセプトでやっていたら、他のお菓子屋さんはそんな手間な事はしないから、凄く人気が出たんです。
全盛期の頃はパイシューだけで一日2,500個売っていました。どこからこんなに買いに来るんだろうかと思いましたね。

一日2万円しか売れない店がシューが売れ始め30個、50個、100個、200個、300個と半年くらいには300個売れるようになったんです。
毎日背中でシューを焼きながら狭い工場ですから300個作って45,000円だから売り上げが今までのベースと合わせて7〜8万になり相乗効果で実は他の品も買われてまして、いきなり一日10万売れる店に成長したんです。

田中
なるほど、パイシューがきっかけで成長されたんですね。

有田氏
それをきっかけに工場が狭かったんで27歳の時に2号店の畝刈店をオープンしました。
これでお菓子屋としてやって行けると自信がついたんです。お客様が来てくれるという事に達成感が出てきました。
今まではお客様が来ない事で悩んでいたのが、「あっ!こうすればお客様は来てくれるんだなぁ」と若くして気付いた訳です。
畝刈店をオープンした時に始めて人を雇えるようになって、社員が僕の下に3名、あとはパートさんが2〜3人いてスタートしました。そうしたらまたそこも売れて、その1年半後に3店舗目の時津店をオープンしました。
現在の時津店ではなくて旧時津店ですが、1階のテナントの60坪を借りてオープンしました。
前方に14台止められる駐車場があり、その当時では自分でもびっくりするような展開でしたね。

その時にまた価値観が変わったんです。
洋菓子店経営ってやっぱり数千万の商売じゃ自分の思うような商品の提案とか出来ないし、設備投資も出来ない、じゃ自分はどのレベルで商売をするんだと思ったら年商3億を目標にしました。
28歳くらいにそういう気持ちがわいてきて年商から商売のあり方を考えたんです。
今の頑張っていく所から行き着く所ではなくて、先にゴールを決めたんです。
なんで3億が必要かというと繁盛店を見たりして僕なりに勉強しました。

このくらい売らないとこんないい設備は入れられないし、人も潤わないし、人も寄らないと・・来ないでしょう。
でもそこでのぼせ上がっていたのか人の問題までは真剣に考えてなかったんですね。
人の問題で苦労しました。
でもそれが全部、やっぱり経営者として、トップとしての力不足だったのが原因だと思います。
現実、今はそこを乗り越えてこういう立場に居るわけで、ある程度の器がないと出来ないと思いました。

田中
そこから人に対する考え方が変わったんですか?

有田氏
すごく変ったと思います。経営者として人間として成長させて頂きましたし、常にリスクに向き合える自分になれました。
人の問題で悩んだからこそ自分自身も成長できたと思っているんです。
22歳で何も分からず長崎に帰ってきた頃の自分と、27歳の頃、現場で無我夢中で仕事している自分と、
現在、40歳過ぎて落ち着いて物事を考えられるようになった自分。
過去を振り返ってみると何事にも謙虚に考えられる自分に なれましたし、これから自分自身どういう風に生きていったらいいか真剣に考えら
れる年代になってきましたからね。 走ってばかりいた自分が冷静になっている。
自分の出来る事と出来ないことが分かってきましたし、 がむしゃらに走っていた自分が懐かしく思えます。
怖いもの知らずってある意味幸せなのかもしれないですね。

田中
4店舗、5店舗目はどちらに出されていますか?

有田氏
長崎市内に浦上店があります。地理的に言ったら平和公園の近くで長崎の中心部です。
もう少し南に下ると観光地にもなっています出島のすぐ側に出島店があります。
スタートは父が残してくれた道の尾店で平成7年11月に2店舗目の畝刈店。平成9年7月に3店舗目の時津店。平成16年11月に4店舗目の出島店。平成18年10月に5店舗目の浦上店です。
また、浦上店をオープンした平成18年の9月に時津店も移転オープンしました。

田中
それでは、時津店の移転オープンと5店舗目の浦上店は平成18年ですね。

有田氏
そうなんですよ。立て続けに2店舗のオープンです。
最初は浦上店の計画はあったんですが、時津店の移転の話はなかったんです。
旧時津店はテナントの1階でしたし、お店も5店舗ありますので、セントラル工場が欲しくて、また、この土地が条件に合ったんで、急遽2店舗のオープンになりました。

田中
菓子職人にとって大事な事とは

有田氏
やっぱり気持ちでしょうね。
物づくりですから、物づくりの中でも食べ物でしょう。
食品ですよね。
結局、僕らは長崎の食文化にどれだけ貢献し続けられるかで社会から生かせて頂ける世界に生きているわけで、必ず貢献しないといけないわけです。
作り手として美味しいものを作り続ける・・伝統も大事にしながらクリエイティブな発想を持って新しい洋菓子も作っていく。
その両面から長崎にお菓子作りを通じて食文化に潤いを持たせるような存在じゃないといけないと・・それは社訓にも書いてあります。


田中
これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスがあれば。

有田氏
物づくりは、そういう技術者指向が高い・・技術力を身につけるといういわゆる職人稼業じゃないですか。
そういった所に入ってくる人の意識が大切になってくると思うんです。
なんとなくこの業界に入ってくる人がいるんですね。ものすごくお菓子を食べるのが好きで、あんなお菓子も作ってみたい、作れるようになりたいとか、私もこの業界に入りたかったんですとか、そんな思考の人であって欲しいです。
職人になるってそんなに安っぽい話じゃないし、もっと熱い思いをもってこの業界に入らないと夢と現実の違いに、すぐギャップが出てきて諦めて1年も経たないうちに辞めてしまいます。
まず、気持ちを作り上げてからこの業界に入るべきだと思いますね。
そんなにプロフェショナルになる事は、なんのプロでも甘い世界じゃないですよ。
プロと名がつく以上、相当意識が高くないとそんな簡単にプロになれないと思うんです。作業員までは誰でもなれると思います。
でも、仕事人いわゆる職人と呼ばれる人はメンタル面でもきっちりしたものを持ってないといけないと思います。

田中
本日はありがとうございました。