田中
本日はよろしくお願いします。
まずは生年月日と出身地をお願いします。

松藤氏
昭和24年9月、出身は長崎県の対馬です。
高校時代まで漁師の町、対馬で過ごしました。
高校を卒業する頃には、板前になろうと思い東京に行く決心をしたんです。

田中
修業はどこでされたのですか?
また、修業時代のお話をお願いします。

松藤氏
田舎育ちなもんですから、東京に行っても右も左もわからなくて、料亭に住み込みで就職しました。
板前を目指していたのですが、自分の中で、はたしてこれでいいのかって思うようになったんですね。
多感な時期ということもあって、トラブルも多かったです。それで、せっかく就職した料亭を辞めてしまいました。
自分が本当になりたい職を探しに後輩が広島にいたので尋ねて行ったんです。

そこで、細工物のかまぼこ屋に就職しました。
広島は「かまぼこ」が有名なんです。ちょうどバタークリームで絞るような感じで、細工物の祝いのかまぼこ等を作るんですよ。
結婚式用の松竹梅とか・・。

その技術は手が覚えていて、今でも鶴を描いたり、目に浮かべて描いたりしますね。

その技術をもってお菓子屋になろうと決めたんですね。
それでお菓子屋になろうと決意して再度、東京に行ったんです。そこで上野にあるお菓子の卸屋を紹介して頂いたんです。
そこから、洋菓子の修行が始まりました。そこにフランスから帰ってきた職人がいまして、それじゃ俺のところに来いという事で世田谷の「たちばな」という和菓子、洋菓子を作るお菓子屋に7年間勤めました。

その後、千葉、岐阜と数店のお店で和菓子、パン、洋菓子の修業を15年間しました。
岐阜では住み込みで、そこのおばあちゃんにお世話になったことから、グランママという店名にしました。

ある年齢になって、故郷が恋しくなり、対馬の近くということで、福岡に行きました。
そこで一時、商品開発の仕事に携わるようになり、自分でお店を出したいとい気持ちが日に日に高まりましてね。

田中
お店を出そうと決心されてこの場所に決められたのは?また、開店当時のお話をお聞かせください。

松藤氏
店舗をいくつか探したんですが、早良区賀茂にまだ1年も満たないビルが建ってその下をテナントとしてあったもんですからここに決めました。
最初見たときには広いなって思ったんですけど、この広さに見合うお菓子を作ってやれと思い決心しました。

1996年6月1日にここ早良区賀茂でグランママをオープンしました。
2008年で12年になります。

オープン当初は夏場に開店したものですから、そこまでは忙しくはなかったですね。
でも、思ったのは「お菓子を作りきれんで潰れることはない」と思いました。お菓子には自信がありましたから、努力もしてきましたからね。
他の店の経営が成り立っているのに「俺だけ、絶対潰れることはない」と思っていました。

洋菓子も無限の世界ですからこれでいいという事はないです。
お陰さまで、この地で12年間してきましたけど順調に行っています。オープン当初は私を含め3人で始めたんですが、製造、販売とこなしてました。それから少しずつ販売のスタッフも増やしていきました。でも、どんな時にでも私が一番にお店に行くようにしています。

夜も仕上げが終わるまではお店に居ますけど、極力スタッフに任せるようにしています。
人材が育たないとですね。どこの世界もそうですが、人材でお店の経営も変わってきます。
商品開発は私がいろいろ考えています。
でも、難しいことはしないです。簡単明瞭です。シンプルにしたいですね。シンプルが一番難しいのかもしれないです。

でも、守りに入ったら駄目です。どういう時も、売れようと売れまいと作る。
限界まで作る。お客様はわざわざ買いに来られているんですから、ショーケースの中はいつも満杯にしておく。
ショーケースの中にあまりない時には、スタッフ共々作りますよ。

田中
菓子職人にとって大切な事は?

松藤氏
常に意欲的にお菓子作りを続けることですね。それはもちろん衛生とか、安全性も入ります。
長く続けることによって、さらにこうした方がいいんじゃないかって分かってきますね。
うわべだけ出来たとしても、経験に勝るものはないですよ。

田中
菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスをお願いします。

松藤氏
お菓子屋になろうと思うならば徹底的にやるしかないですね。何かを犠牲にする事もあるかもしれないです。それが出来るかどうかです。その気持ちがあるかどうかですから、

お店を開店してからが大変です。
修業時代にどれだけ技術を習得できるか、精神面にしても強くなれるかだと思います。

田中

本日はありがとうございました。