田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?

北川氏
昭和38年6月1日、出身は熊本市川尻町です。
体育会系だったんですけど、モノを作るのも好きだったですね。スポーツはずっとやってました。
剣道、バレーボール、ハンドボールです。
高校は1年しか行ってないんですけど、ハンドボール部に入っていました。
うちの実家が和菓子屋なんです。
小さい頃からあまりかまってもらえなくて、だから小学校の頃から結構、自分のご飯は作っていました。
お菓子屋だから卵はどれだけ使ってもいいって言われていたので、卵料理ばかりでしたね。

家が甘いモノ屋なんで塩辛いモノを作るんです。だからうちのフレンチトーストは塩味、それが当たり前だと思ってましたよ。

田中
パティシエを志したのはいくつの頃ですか?

北川氏
パティシエを志したのは20歳の頃です。
僕はお菓子屋には絶対にならないと思っていたんで、どちらかというと服飾デザイン関係に行きたくて、すごくKENZOに憧れがあって、
ファッションデザイナーになりたかったんです。
高校は1年で辞めてしまったんですけど、なにしろ東京に行きたくてじゃ〜どうしたら行けるのか16歳のガキンチョがですね。
どうしたら東京に出してくれるのか・・・僕には兄がいるんですけど跡を継いでまして、兄がお菓子の専門学校に行ってたのを知っては
いたんです。

親からはお前もお菓子の専門学校に行けって言われていたんです。
その専門学校が東京にあると知っていたので、これだったら東京に行けると思って・・・すんなり行かせてくれました。
とりあえず東京に行けば何とかなると・・。

それで、東京でお菓子の専門学校に通いながら、ファッションの勉強をしたりとか、デザイナーズ学院ってあるんですが、
そこの通信教育を受けて、お菓子の専門学校とファッションの通教と二股かけていました。
ただ通信教育は簡単に挫折してしまうんですね。続かないです。

ただ洋服だけは好きで、デザイナーになれなかったらお店をやりたいと、それでず〜っと洋服屋でアルバイトをしていました。
いつかファッション関係の仕事をしたいと思っていました。

なんせ東京に居る事が目的だったものですから、お菓子の専門学校は2年で卒業するじゃないですか、卒業すると就職をしなければと、
兄は洋菓子をやっていて、僕は和菓子課を選んでいたので、結局、東京に居る為にそのまま練馬区の和菓子屋に就職しました。

これでまだ東京に居る事が出来ると、そこで2年半ぐらいやりながらも洋服関係をやりたいとず〜っと思っていました。
ただ後ろめたさがあるんですね。そうした所、僕が20歳くらいの時に、洋菓子屋さんブーム、パティスリーブームあったんです。

ケーキ屋さんからフランス菓子という風な移り変わり、その頃、ムースが出てきた頃です。オシャレでクリエイティブな仕事、ヨーロッパだと、
ファッション業界ともリンクするものがあると・・自分はこんな仕事がしたいと洋菓子の世界に行く決心をした瞬間でした。
本当は横文字の職業に憧れがあったのかも知れませんね。

田中
それから本格的に洋菓子の修業をされるわけですか?

北川氏
東京の「シェ・リュイ」で洋菓子を5年間修業させて頂きました。
そこはフランスのエスプリの効いたお店なんです。
フランス菓子に留まらず料理やオードブル関係、デザートすべて展開している所で、そのお店の理念がフランスの食文化を
日本に伝えるというお店なんです。

だから一番最初にやったのはサンドイッチの玉子焼きから始まりました。
洋菓子、チョコレートすべてやりました。最後の2年間はお店を2件任されてましたね。

田中
その後は他のお店に行かれたんですか?

北川氏
「シェ・リュイ」で5年間働いた時に、実家から連絡があって実家の体制が整わないと、少しテコ入れをしてもらえないかと、
それで1年後には東京に戻るつもりで、休職して熊本に帰ってきたんです。
そうしたら僕の作るお菓子がとても古典的なフランス菓子なんですけど、小さくてお酒が効いて高いというものもあって地域の人に受け入れてもらえなかったんです。

それで1年で答えが出なくて、このままでは終われない、自分の思っているモノをやり続けて認知させるまでは東京には絶対帰れないのかなって「シェ・リュイ」の社長に相談したら、「お前、熊本に帰ってやれ」と「熊本で頑張れ」と言って頂いて本格的に熊本に帰ってきたんです。

田中
熊本に帰られて実家でされるわけですか?

北川氏
結局、実家でやり始めたものの、やっぱり自分がまだ何にも知らないという事に気づいていくわけですよ。
それまでは大きな母体の中でそこの仕事は出来るんですけど、やっぱり応用が利かなかったり、じゃ熊本の人に合うお菓子って何ナノか分からなかったんです。

ジレンマもあって、そんな時に、熊本に岡田コーヒーってあるんですけど、そこの専務さんと出会って、その方は本当に腰の低い人で、
学ばなければと思いました。
専務さんは、「知らないことは教えてもらわなければ駄目だよ」、「いろんな所に出向いてはお店を見学させて頂いたり、教えて頂いたり、
もっと自分を磨かないといけないよ」、「絶対奢りじゃ駄目だよ」と教えて頂きました。

僕も東京から帰ってきてコンテストとか出て優勝しちゃうわけです。
そうしたらよけい天狗になってしまって、その鼻をへし折られてしまいました。

自分自身冷静に考えて、それからですね。
今までやらなかった、もしくは出来なかったモノを求めて、東京に行ってそこで研修をさせて頂いたり、それを繰り返しながら、熊本に帰ってきたのが26歳の頃ですから30歳前半まではいろんな所に勉強に行ってました。

田中
それから職人としての考え方がか変わったんですね。

北川氏
いろんな所に出向いてはオープンスタッフとして手伝わせて頂いたり、特に一番お世話になったのは横浜の「ベルグの4月」の
山本シェフにいろんな事を教えて頂きました。
それで、自分のお菓子が増えたかなって思います。

教えて頂いたモノに自分のカラーを載せて北川流にすると言う事なんです。
また、32歳の時に3ヶ月ほど家内と二人でフランスの文化を見る為に旅して回ったんです。
フランスの7割は見て回りました。田舎も行きました。

その地方に根付いたお菓子もありましたし、最先端のお菓子であったりとかいろんな物を見て勉強になりました。
最終的には何が残ったかと言うと・・・最後パリでお世話になったフランス人の家族がいまして、その人達が僕達にしてくれた
「お前は今日何が食べたい?・・お前が喜ぶ顔を見るのがオレは好きなんだ」と、してあげて嬉しいという世界ですね。

結局、帰りの飛行機の中でこの3ヶ月間オレは何を学んできたのかと思った時に、結局、人の思いやりであったりとか、人種を超えて絶対伝わるもんだなと、それが僕達の仕事じゃないだろうかという所に結びついて、うちのお店のキーワードは、「喜」という字。
僕の家族全員の名前に、「喜」という字が付いているんですね。
「喜ぶ、喜ばせる」言うのが一つのキーワードです。それがお店のキーワードでもあるんです。

田中
自分でお店を出そうと決心されたのは?

北川氏
36歳の時です。
職人って自分の分身をいっぱい作りたいですよね。
それをしたくて、北川で修業したんだと、僕もいろんな所で修業した様にみんなのステップになれたらいいなぁと思って独立したんです。
自分のお菓子を自分で表現したいという想いがありましたから。

田中
お店を出されたのはこの場所ですか?また、オープンにあたっての考え方はあったんですか?

北川氏
創業は2000年6月、田迎に小さなテナントで5年間営業しました。
5年後、2005年7月、この地に移転オープンしました。
僕はですね、勤めた「シェ・リュイ」がとても好きで、そこの雰囲気も好きだし、本当にお菓子はフランスの伝統菓子ばっかりなんですけど、やっぱりエスプリというものは単に最先端のものばかりじゃないんだなぁと伝統のものもあったりして、それが好きで僕の結婚式の時に社長とお話をさせて頂きた時に「今度お店を出そうと思っています。お店を出す時には是非「シェ・リュイ」みたいなお店を作りたいと、果たして僕に出来るだろうか」と話たんですね。

そうしたら社長が「北川君、何もね心配する事はないよ、お前はうちでみっちり学んだし、うちのお店の事が好きだったら、自分の好きな絵を飾って、好きなお菓子を作って、好きな音楽を流せばうちとまったく同じになるじゃないか」って言われたんですよ。
その時にはよく意味が分からなかったんですけど、その5年後にお店をオープンしまして、その時にやっと分かったんです。

それは、うちの真似ではなくて自分の好きなモノをやりなさいと、それがあなたの本来のモノだよ。
そういう事を言われたと思うんですよ。
それからは自分の好きなモノ、自分の好きな事を信じて、やり続けてうちの形を作り上げてきました。
美味しいと言うものは個人的な嗜好で、”美味しい”、”まずい”は別にして、北川君らしいねと言われるのが一番嬉しいですね。

僕の事を好きでいてもらえるんだったら「う〜んこれは理解できない味なんだけど、ちょっと食べてみようか」その中で味を探してもらう。
ここが北川ぽいのかなって、そういうお菓子作りをポリシーとしています。

田中
オープン当初はどうでした?

北川氏
創業時は6人から始めました。製造が4人で販売が家内ともう一人いました。
僕もこの辺はリサーチしてなくて、お客様から「よくこんな所に出したね」と・・
この界隈お菓子屋さんだらけでなんです。

それも老舗ばっかりで、でも厳しい状況でやり始めたのが逆によかったのかなぁって思いますし、小さいお店だったんですけど、最初からやりたい事をやっていたんで、お菓子はもちろんですけど、今の半分のショーケースで今のアイテムは十分揃えていましたし、チョコレートやパンも当初からやっていました。
逆に新しいお店になって、じゃ、うちのカラーって何ナノかなって考えた時に、自分の中でネガティブに思っていた和菓子屋時代って言う部分が他のパティシエにはないんじゃないかなって、


若い頃に洋服屋になりたいなって思いながらも過ごした3年間っていうのは空白ではないよね。その部分をポジティブな部分として前面に出して行こうと、だからうちのスタイルとしてはフランス菓子でもなく、北川流のお菓子という枠を早く確立させたいという事で、お店に入るとフランスっぽいものもあると、それで振り向くと和菓子っぽいのもあると、それは一見統一感がないように見えるけれど、僕の中ではきちんとうちのお菓子として成り立つわけです。北川流です。

田中

菓子職人にとって大切な事は何ですか。

北川氏
思いやりですね。いわゆるサプライズっていうか、人を喜ばせて、楽しませて、驚かせてというのが大切だと思います。
うちでもそうなんですけど、チョコレートルームに入って頂いて、「うわって」言ってもらったら半分成功です。

田中
これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスがあればお願いします。

北川氏
僕がそうなんで、この世界は学歴なんて関係ないですから、勉強は出来なくてもいいと思うんですよ。
うちにも大学に行った子もいますし、僕みたいな子もいます。この世界は技術職なんで、どれだけ頑張れるかです。
先程とリンクしますが、人への思いやりがまず第一ですね。
あと、気づく事でしょうね。

田中
本日はありがとうございました。