家が甘いモノ屋なんで塩辛いモノを作るんです。だからうちのフレンチトーストは塩味、それが当たり前だと思ってましたよ。
田中
パティシエを志したのはいくつの頃ですか?
北川氏
パティシエを志したのは20歳の頃です。
僕はお菓子屋には絶対にならないと思っていたんで、どちらかというと服飾デザイン関係に行きたくて、すごくKENZOに憧れがあって、
ファッションデザイナーになりたかったんです。
高校は1年で辞めてしまったんですけど、なにしろ東京に行きたくてじゃ〜どうしたら行けるのか16歳のガキンチョがですね。
どうしたら東京に出してくれるのか・・・僕には兄がいるんですけど跡を継いでまして、兄がお菓子の専門学校に行ってたのを知っては
いたんです。
親からはお前もお菓子の専門学校に行けって言われていたんです。
その専門学校が東京にあると知っていたので、これだったら東京に行けると思って・・・すんなり行かせてくれました。
とりあえず東京に行けば何とかなると・・。
それで、東京でお菓子の専門学校に通いながら、ファッションの勉強をしたりとか、デザイナーズ学院ってあるんですが、
そこの通信教育を受けて、お菓子の専門学校とファッションの通教と二股かけていました。
ただ通信教育は簡単に挫折してしまうんですね。続かないです。
ただ洋服だけは好きで、デザイナーになれなかったらお店をやりたいと、それでず〜っと洋服屋でアルバイトをしていました。
いつかファッション関係の仕事をしたいと思っていました。
なんせ東京に居る事が目的だったものですから、お菓子の専門学校は2年で卒業するじゃないですか、卒業すると就職をしなければと、
兄は洋菓子をやっていて、僕は和菓子課を選んでいたので、結局、東京に居る為にそのまま練馬区の和菓子屋に就職しました。
これでまだ東京に居る事が出来ると、そこで2年半ぐらいやりながらも洋服関係をやりたいとず〜っと思っていました。
ただ後ろめたさがあるんですね。そうした所、僕が20歳くらいの時に、洋菓子屋さんブーム、パティスリーブームあったんです。
ケーキ屋さんからフランス菓子という風な移り変わり、その頃、ムースが出てきた頃です。オシャレでクリエイティブな仕事、ヨーロッパだと、
ファッション業界ともリンクするものがあると・・自分はこんな仕事がしたいと洋菓子の世界に行く決心をした瞬間でした。
本当は横文字の職業に憧れがあったのかも知れませんね。
田中
それから本格的に洋菓子の修業をされるわけですか?
北川氏
東京の「シェ・リュイ」で洋菓子を5年間修業させて頂きました。
そこはフランスのエスプリの効いたお店なんです。
フランス菓子に留まらず料理やオードブル関係、デザートすべて展開している所で、そのお店の理念がフランスの食文化を
日本に伝えるというお店なんです。
だから一番最初にやったのはサンドイッチの玉子焼きから始まりました。
洋菓子、チョコレートすべてやりました。最後の2年間はお店を2件任されてましたね。
田中
その後は他のお店に行かれたんですか?
北川氏
「シェ・リュイ」で5年間働いた時に、実家から連絡があって実家の体制が整わないと、少しテコ入れをしてもらえないかと、
それで1年後には東京に戻るつもりで、休職して熊本に帰ってきたんです。
そうしたら僕の作るお菓子がとても古典的なフランス菓子なんですけど、小さくてお酒が効いて高いというものもあって地域の人に受け入れてもらえなかったんです。
それで1年で答えが出なくて、このままでは終われない、自分の思っているモノをやり続けて認知させるまでは東京には絶対帰れないのかなって「シェ・リュイ」の社長に相談したら、「お前、熊本に帰ってやれ」と「熊本で頑張れ」と言って頂いて本格的に熊本に帰ってきたんです。
田中
熊本に帰られて実家でされるわけですか?
北川氏
結局、実家でやり始めたものの、やっぱり自分がまだ何にも知らないという事に気づいていくわけですよ。
それまでは大きな母体の中でそこの仕事は出来るんですけど、やっぱり応用が利かなかったり、じゃ熊本の人に合うお菓子って何ナノか分からなかったんです。
ジレンマもあって、そんな時に、熊本に岡田コーヒーってあるんですけど、そこの専務さんと出会って、その方は本当に腰の低い人で、
学ばなければと思いました。
専務さんは、「知らないことは教えてもらわなければ駄目だよ」、「いろんな所に出向いてはお店を見学させて頂いたり、教えて頂いたり、
もっと自分を磨かないといけないよ」、「絶対奢りじゃ駄目だよ」と教えて頂きました。
僕も東京から帰ってきてコンテストとか出て優勝しちゃうわけです。
そうしたらよけい天狗になってしまって、その鼻をへし折られてしまいました。
自分自身冷静に考えて、それからですね。
今までやらなかった、もしくは出来なかったモノを求めて、東京に行ってそこで研修をさせて頂いたり、それを繰り返しながら、熊本に帰ってきたのが26歳の頃ですから30歳前半まではいろんな所に勉強に行ってました。
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