田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、熱中した事や趣味は
ありますか?

草野氏
1963年7月5日、長崎市出身です。
好きな科目は社会や体育が好きで、
高校では部活でラグビーをやってました。
趣味は人助けですかね。
困っている人がいたら助けてあげたいとかです。
やっぱりイジメられている子とかいたら助けていました。

田中
結構リーダー的と言うか人気者な存在だったんですね。

草野氏
指揮もできないのに指揮者にされたりとか、運動会でも応援団長をさせられたりなど、先生から何でも指名されていました。
音楽コンクールで、「あなたが指揮しなさい」って言われて、でも結局出来なくて「やっぱり草野くん無理ね」って音楽の先生から言われて降ろされたりもしましたね。
ムードメーカ的な感じですかね。

田中
実家が和菓子屋さんですが、それは長崎市内でされていたんでしょうか?
やっぱり子供ながらに親を見て後を継ごうとか思われていました?

草野氏
後を継ぐと言うよりは、洋菓子と和菓子はまったく違う物で、だから親父とは違う業種だったので親父はケーキの事は分からない。
僕も和菓子の事は分からない。
その辺は良い方向だったと思います。
やっぱり同じ業種だといろいろ指導的な面も含めて喧嘩なんかもありますが、そういう事がなかったのでやりやすくはありましたね。

田中
では高校を卒業する頃には、洋菓子の方に進みたいと?

草野氏
まぁ洋菓子と言うか最初はそこまでなかったですけど、僕は高校を出て親戚の洋菓子店で、5年くらい住み込みで働いていたんです。
コンテストに出したりして最初は取れなかったですけど、だんだん良い成績がでるようになって、すごくいいなぁと思って、この世界に引きずり込まれました。

田中
その後、東京に行かれたんですね。東京に行こうと思われたのは?

草野氏
やはりレベルの高い所でやってみたいと思いまして、4年間行きました。
東京では2店舗の洋菓子店にお世話になりました。
江戸川区の「イルビット」に2年、世田谷区の「フカサワ」に2年です。

田中
東京での修業はどうでした?

草野氏
当時はやっぱりつらかったです。レシピも全部フランス語だし「これ何て読むの」と。
もちろんフランスにも修業に行ってみたいとは思っていましたが、観光してレシピだけ写して帰って来るのは嫌だと思い、文化を理解してしっかり日本で勉強したほうが良いと思ったんです。
でも、どうしても遅くまで仕事なので、終電もなくなり歩いて帰ったり仕事場に泊まったりの毎日でした。

田中
合計9年間、洋菓子の修業をされて長崎に帰ってこられたんですね。
帰って来てからはどうされたんですか?

草野氏
28歳の時に、5月くらいに帰って来てきまして、準備をして1991年10月にお店をオープンしました。
父の店の隣ですね。一からのスタートで、もちろん父とは別で洋菓子店として「ボンソアール」をオープンしました。

田中
最初は何人から始められたんですか?また、オープン当初はどうでした?

草野氏
最初は1人からです。販売は嫁さんと夕方からアルバイトに1人入ってもらっていました。
そこで8年間営業させて頂きました。
オープン当初は正直厳しかったですね。
最初、店をオープンした日は行列が出来るかなとも思ったんですが、全然、8年間売れなかったですね。
だいたい毎日、店にいればその日どれだけ売れるか分かるので「今日はレジ締めよう」と言う日もありました。

何千円しか売れない日もありましたよ。
何が原因かは、それはやっぱり自分は最先端のケーキと思ってやっていたのが、受け入れられてなかったと言うか自分のケーキは認められなかったんだなと、今では思います。
やっぱり東京と、ここ長崎は全然違ってた。東京は形は小さいし、味がカチッとして、やはり長崎はカステラ文化で、そのスポンジというのが、
ふわっとしたお菓子だから、その頃のお菓子は受け入れてもらえなかったですね。

田中
何かメインになる商品とかあったんですか?
たとえばシュークリームとか。

草野氏
そうですね。
シュークリームを8個作っても1個しか売れなかったりとか、自分では美味しいと思っていたんだけど、お客様から「場所はどこにあるんですか」と電話で聞かれてもまったく説明のしようがないような所だったから、どうしても場所柄というのもありました。
車も止められない所でしたしね。

でも、今あるお菓子でも、その時やっていたお菓子が結構たくさんあます。
その頃は「自分のお菓子はダメなんだな」とすごくショックでしたけど、今は売れるようになり基本的にはそこでの8年間の集大成で今の店をやっているので、何とか認めて頂けたかなと思っています。

移転したのも歩いて5分の場所なので、結局はこの地域で当時立地さよければ売れるという自信はあったんです。
そこで郊外に移転してもよかったんですが、またこの地域で勝負出来たのは、その時の失いかけた自信が勝負する事で取り戻せたと言うのがあったんです。

田中
今の場所に移転されたのが何年ですか。また、この場所に決められたのは何か理由があったんですか?

草野氏
1999年の10月です。
移転する時も、銀行から「そんな近くに移転しても売れない」と言われましたし、お金を借りないといけなかったんですが、自分がへこんでいたのもあって、でもそういう風に言われた事で自分の中の負けん気が「なにくそ」っていう気持ちが出てきました。
当時は本当にお金がなくて、意地でも1日10万は売ってやろうと思えたから良かったかなと思いますけどね。
この場所にしたのは、間口が広くてお店の前に車が止められるという事、それが一番でした。

回りからは「わざわざ車で買いに来ないですよ」と言われましたけど、いやこれからは車社会の時代になるし美味しければ買いに来てくれると信じていました。
まぁ当時は言っても分かってもらえなかったですけど。
最初は借金してお店をはじめて、どうなる事かとも思いましたけど、その頃はもう「絶対に売るんだ!」という意識があったし、やっぱりそうやって売れない時代があったからこそ逆に良かったのかなと思いますね。
今でも当時の事を思い出せばもうあの頃には戻りたくないと思えるので、普段から一生懸命、真面目に出来るようになりました。

田中
ケーキはその頃とは変わりましたか?

草野氏
基本はやっぱりそこでの8年間の集大成で自分が美味しいと思っているモノです。
だけど年が変わればショーケースも変わってきますよね。
10年前と同じショーケースというのはありえませんから、10年前と比べれば色んな商品も研究して作ったし、展開も早いし、
また、お客様からも「こういうお菓子ないですか」とも聞かれますしね。

田中
ボンソアールというお店の名前の由来は?

草野氏
お店を作る時に決めたんですが、正直名前は何でもよかったんです。
でも開店も迫って、包装紙の関係等もあり早急に店名を決めないといけなくなって、
それでも店の名前はなんでもいいと言って、その時は売れると思っていたから。
それじゃ「ボン」とか、「ン」がつく名前が良いと思ったんです。

覚えやすい名前には「ン」がついている事が多かったので「ボン」にして、ボンだけだと寂しいと思いフランス語の「ボンジュール」、「こんにちわ」という意味の挨拶の言葉にしようと思ったけど「濁音」が続くなと考え直して、「こんばんわ」という意味の「ボンソワール」を響きの良い「ボンソアール」にして店名に決めました。

田中
菓子職人にとって大切な事は。

草野氏
それはもう信念でしょうね。
結局、今の時代というのは例えば「8時間働いていくら」というような世界じゃないですか。
もちろん労働に対してお金は払うんですけど、「失敗しました。捨てます。もう一度作ります。時間来ました帰ります。」だと
何にもならないんですよ。
結局、お菓子作りというのは、僕らは学校じゃないから給料を払って働いてもらっているんです。
学校は自分たちで授業料を払っているのである意味失敗して、捨てても構わないですが、でも僕らは会社のお金で材料を買ってその拘束時間にお金を払うのだから、「失敗しました。捨てます。帰ります。」で通用させたくないんですね。

仮にもお金をもらって働いている以上「プロ」ですよ。
プロっていうのは「ここでいいや」と思ったらダメなんです。そこから伸びないですから。
どんなに才能があっても遊び回っていたら良い技術なんて残せないんです。
それと同じでやっぱり「貪欲」に仕事をする事、もちろん「きつい、時間長い」と思って辞める子も多いとは思います。
ハードな仕事ですから、でも菓子作りに必要なのは「絶対やるぞ」とか「絶対、人に負けないぞ」とかそういう信念だと思うんです。
日本や長崎でトップになれとは言わないけれど、そうなろうと思う気持ちは大切なんじゃないのかなと思うんです。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

草野氏
そうですね。やはりお菓子を好きになる事。何にでも興味を持つ事。
食べて「美味しいね」というのは素直な感情ですけど、それがものすごく大切なんですよね。
それで「このお菓子どうやって作るんだろう」って思う、そう思えただけでも良いと思います。

そして何でも分からない事は聞く、疑問をそのままにしない。
お菓子を食べた時に「美味しいね」となるのはとても幸せな事なんですよ。
だからケーキを食べる機会が増えるというのは良い事も増えると思います。

田中
本日はありがとうございました。