田中
結構リーダー的と言うか人気者な存在だったんですね。
草野氏
指揮もできないのに指揮者にされたりとか、運動会でも応援団長をさせられたりなど、先生から何でも指名されていました。
音楽コンクールで、「あなたが指揮しなさい」って言われて、でも結局出来なくて「やっぱり草野くん無理ね」って音楽の先生から言われて降ろされたりもしましたね。
ムードメーカ的な感じですかね。
田中
実家が和菓子屋さんですが、それは長崎市内でされていたんでしょうか?
やっぱり子供ながらに親を見て後を継ごうとか思われていました?
草野氏
後を継ぐと言うよりは、洋菓子と和菓子はまったく違う物で、だから親父とは違う業種だったので親父はケーキの事は分からない。
僕も和菓子の事は分からない。
その辺は良い方向だったと思います。
やっぱり同じ業種だといろいろ指導的な面も含めて喧嘩なんかもありますが、そういう事がなかったのでやりやすくはありましたね。
田中
では高校を卒業する頃には、洋菓子の方に進みたいと?
草野氏
まぁ洋菓子と言うか最初はそこまでなかったですけど、僕は高校を出て親戚の洋菓子店で、5年くらい住み込みで働いていたんです。
コンテストに出したりして最初は取れなかったですけど、だんだん良い成績がでるようになって、すごくいいなぁと思って、この世界に引きずり込まれました。
田中
その後、東京に行かれたんですね。東京に行こうと思われたのは?
草野氏
やはりレベルの高い所でやってみたいと思いまして、4年間行きました。
東京では2店舗の洋菓子店にお世話になりました。
江戸川区の「イルビット」に2年、世田谷区の「フカサワ」に2年です。
田中
東京での修業はどうでした?
草野氏
当時はやっぱりつらかったです。レシピも全部フランス語だし「これ何て読むの」と。
もちろんフランスにも修業に行ってみたいとは思っていましたが、観光してレシピだけ写して帰って来るのは嫌だと思い、文化を理解してしっかり日本で勉強したほうが良いと思ったんです。
でも、どうしても遅くまで仕事なので、終電もなくなり歩いて帰ったり仕事場に泊まったりの毎日でした。
田中
合計9年間、洋菓子の修業をされて長崎に帰ってこられたんですね。
帰って来てからはどうされたんですか?
草野氏
28歳の時に、5月くらいに帰って来てきまして、準備をして1991年10月にお店をオープンしました。
父の店の隣ですね。一からのスタートで、もちろん父とは別で洋菓子店として「ボンソアール」をオープンしました。 |