田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日とご出身地をお願いします。
また、子供の頃、好きだった事は?

山口氏
昭和42年6月15日生まれ、出身は長崎県長崎市です。
子供の頃からお菓子に興味がありましたので、
ケーキ屋になりたいと思っていました。
実は実家がカステラ等を作っている和菓子屋なんです。

田中
ご実家の和菓子屋さんは長崎ですか?

山口氏
そうです。
松翁軒と言いまして、親父の代で10代目です。

田中
それでは創業は何年でしょうか?

山口氏
江戸中期の天和元年ですから三百年以上ですね。
初代は山口屋貞助が店を構えて、「カステラ」や「砂糖漬け」などを作っていました。

田中
長崎といえばカステラですけど、カステラも南蛮菓子ですよね。
カステラとかには興味はありませんでした?

山口氏
スペインやポルトガルですから、カステラも南蛮菓子ですね。
ただ、私の場合は子供の頃からカステラとか和菓子より洋菓子、ケーキの方に興味がありました。

田中
子供の頃からケーキ屋さんになりたいと思ったきっかけは何かあったんでしょうか?

山口氏
実家がお菓子屋なんで、お菓子の本や、ケーキの本を良く見ていたんです。
特にヨーロッパ、フランスに行ってみたいと、要は外国に対する憧れがあったと思います。

早くお菓子屋に就職したかったんですけど、結局、大学まで行かせてもらったんです。
大学の頃がちょうどバブルの時代で、友人達はみんな良いところに就職するわけですよ。
私はそれを横目に、これで自分もケーキ屋に就職出来ると嬉しかったのを覚えています。

田中
それで、ケーキ屋さんに就職されるわけですね。

山口氏
やっと子供の頃からの夢の第一歩ですからね。
東京のフランス菓子のお店で「青山シャンドン」に入りまして洋菓子作りの基礎を学びました。
そこは、マスターがフランスで修業された方で、縁はなかったんですけど、東京に行った時に、一度ケーキを食べて、美味しいし、良いお店だなと思ったんです。

田中
「青山シャンドン」さんに入られてどうでした?

山口氏
仕事はそんなにきつくはなかったんですけど、社会人としての自覚や、職人の世界ですから、
覚える事も多くて、いろんな面でしんどかったですね。

でも、洋菓子屋さんで働ける気持ちの嬉しさの方が勝っていました。
本来、自分が希望してた道ですから、そういった面では楽しかったし、充実していました。

田中
大学を卒業してからこの道に入られて、仕事に対する気持ちはどうでした?

山口氏
自分としては、7年間ぐらい遅れて来てるコースですから、先輩は年下の方もいらっしゃったし、でも職人はそういうもんだと思っていましたから、違和感はなかったです。

田中
「青山シャンドン」さんには何年間いらっしゃったんですか?

山口氏
洋菓子作りの基礎を習い、2年半いました。

田中
その後にヨーロッパに行かれるわけですか?

山口氏
想いはヨーロッパに行きたくて、その気持ちを抑えられなかったんです。
自分としては、フランスに行きたくて、父に相談したんです。
すると、フランスには知り合いはいないけれど、スペインに詳しい人だったらいるという話になって、父の知り合いの、日本人の方で通訳が出来る料理研究家の人がスペインにいらっしゃったんです。

その方に話をしてみると、要はスペインに2〜3ヶ月居てフランスに入った方がいいんじゃないかと、通過して行けばという話になったんです。
あくまで、フランスに行く為にまず、スペインに入ろうかと言う事になりました。

田中
それで、スペインに行かれるわけですね。

山口氏
ちょうど、バルセロナオリンピックの直後です。
最初は、すごいお菓子が並んでいるし、圧倒されました。
ただ、言葉が分からないので、すごい無愛想に見えて、なんでこんな所に来たんだろうと、最初は正直思いました。
でも、来たからには慣れないといけないと思って、語学学校に行きながら就職先を探したんです。
そうする内に、マドリードのダニエル・ゲレロ氏のお店で「オルノ・サン・オノフレ」に入ることが出来たんです。
そこのお店は忙しくて、私が入った時には、ちょうど3件目の支店を出したところだったんです。

田中
スペイン菓子とフランス菓子の違いはあったんですか?

山口氏
スペインは暑い国で、生菓子はあまり発展しないんです。性格的にも保守的な人たちが多いんです。
ケーキはあるけど、フランス菓子の様な華やかさはあまりなかったですね。

昔かたぎのお店が多くて、古くからの伝統菓子、焼き菓子が地方でいろいろありました。
スペインに居るうちに伝統菓子に興味を持ち、慣れてくると、すごい良い人が多くて、日本人だからどうとかはないです。
慣れてきたら、お前はアミーゴだと、お前は家族だと歓迎してくれるんです。

パン菓子やイースト菓子が多くて、結局、熱い気候だから、そういうお菓子を作らないと商売として食べて行けないんですよ。
だから、スペインに来てこれが一番大事だと言われたのが、ブリオッシュやクロワッサンとかの生地なんです。
「これが出来ないとだめだぞ」と言われました。素材で言うとスペインはアーモンドを使ったお菓子が多く、タルト生地のお菓子も多いですね。

田中
結局スペインにはどのくらいいらっしゃったんですか?

山口氏
「オルノ・サン・オノフレ」には、最初は2〜3ヶ月と思っていたんですけど、働き出すとそういう事も出来なくて2年半いました。
たいへん居心地は良かったんですけど、皆も本当に良くしてくれて、現実としてスペインの生活もすごく気に入っていて、でも、自分としてはフランスにも行きたくて、結局フランスに行く時には、行きたいんだけど、残りたいと言う気持ちでした。

田中
それで、フランスに行かれるわけですね。
フランスにはお知り合いがいらっしゃったんですか?

山口氏
フランスに行った時には、今度はスペインに帰りたい気持ちになるわけです。
フランスには日本人が多くて、これも父絡みで、あるポルトガル人を紹介してもらったんです。
ポルトガル人の菓子職人で奥様が京都出身のご夫婦がいらっしゃって、そのご主人のパウロというポルトガル人がうちの実家で半年ぐらいカステラの修業に来ていたんですよ。
日本語も堪能で、そのご夫婦がリスボンにいらっしゃって、今度フランスに行きたいと話をしたら、奥様が「パウロ」がパリで日本人の職人さんに飴細工を習って知り合いらしいと、そんな訳で、フランスの事情を聞きに行っていろいろお話をしたんです。

とりあえず自分でもお店を探してみますという事になって、ある時、パリから新幹線で2時間くらいの街なんですけど、ロワール地方のアンジェという街で降りて、たまたま入ったお店のカフェでケーキを食べたんです。
「美味しいなぁ」と思ってこのお店に入りたいと思い、ショップカードを貰って、手紙を送ったんです。

後で分かった事ですけど、ミッシェル・ガロワイエー氏の「トリアノン」と言うお店で、そのお店は日本人の職人が多いお店だったんですね。
それで、返事は来なかったんですけど、とにかく行っちゃえみたいになって、そうしたら、うまい具合に入れまして、偶然でしたね。

田中
いよいよフランスでの生活が始まるわけなんですけど、どうでした?

山口氏
すごく嬉しいし、それと同時に、すごいきつい時でもありました。
「トリアノン」は、特に日本人が多いお店だったんで、そう言う面では皆とすぐ仲良くなって良かったんですけど、スペインでやっと慣れた生活を捨てたのもあって、隣の国だけれども違う面も色々あるし、言葉も違うし、そんな事で苦労した面もありました。

ただやっぱりこれがフランスかと、自分がフランスの菓子屋で働いている事で達成感はありました。
でも実際、達成しても実は結構きついものだったんですよ。
何でもそうだと思いますけど、まだ自分にもそんなに技術があるわけでもないし、毎日、必死になって仕事しているわけです。
それで、スペインにやっと慣れたのに、また一からかと正直思いました。

「トリアノン」には1年程いまして、それで、オーナーから次のお店、南フランスのトゥールーズの「メゾン・ピロン」を紹介して頂きました。
そこではチョコレートのお菓子を習いました。パテイスリーとショコラティエがあったんですけど人手がないのでお前はショコラティエに行ってくれと言われて、入ってみるとすごい楽しいし、ショコラティエにはめったに入れないし、そう言った面では良かったと思いました。

ムッシュとマダムがすごく良い方で、いろいろお世話になって8ヶ月でしたけど、いい勉強になりました。
ここで5年程習いたいと思って、先輩に相談したんです。それじゃ親方に話してみろよと言われて、話をしようかと思っていたら、ちょうどその頃、労働ピザを取るのが厳しい時で、親方が、「最近労働ピザが厳しくなって、簡単には取れないと・・」私にも労働ピザの申請を出そうと言って頂いたんですけど、何か悪いかなぁと、それでこのくらいで上がりますと言ったんです。
結局、8ヶ月程で上がる事になったんです。

田中
トータルして何年くらいヨーロッパにいらっしゃったんですか?

山口氏
トータルすると4年半くらいですね。それで、長崎に帰って来ました。

田中
長崎に帰られて、どうされました?

山口氏
はじめは、もっと何処かで勉強しなきゃと父に相談したところ、父が自分でやった方がいいだろうと、松翁軒には洋菓子はないけど、まずは、
ブライダルギフトで洋菓子の需要があるから作ってくれないかと言う事になって、32歳の時に「セヴィーリャ」を立ち上げ、そこのシェフになったんです。
「セヴィーリャ」の命名は松翁軒の2階に喫茶「セヴィーリャ」があり、同じ「セヴィーリャ」という店名にしました。
5年間「セヴィーリャ」のシェフをしまして、それから「サンオノフレ」を開店しました。

田中
「セヴィーリャ」のシェフを辞められて、「サンオノフレ」を開店された理由は?

山口氏
いろいろあったんですけど、一番の理由は独立をしたい、出来れば郊外で自分のお店を持ちたいと思ったんです。
自分としては、会社を辞めて独立という事です。
父にも相談しまして、最終的には快諾してくれましたし、父には本当に感謝しています。

田中
それでは、長崎市ではなく、この地に決められたのは?
また、?オープンされたのはいつでしょうか?

山口氏
いろいろ妻と見て回りました。
この地、時津にはまったく縁はなかったんですけど、条件も、環境も良くて、本当に良い物件に巡り合いました。
オープンしたのが2004年の4月です。

田中
いよいよオープンされるわけですが、最初は何人から始められたわけですか?
また、店名を「サンオノフレ」にされたのは?

山口氏
最初はスタッフが6名、パートさんが2名、あと、私と妻ですから10名ですね。
店名をどうしようかと考えていた時に、私が最初スペインで修行したところが、「オルノ・サン・オノフレ」だったんで、「サン・オノフレ」がいいんじゃないかと思いまして、オープン前にスペインの「オルノ・サン・オノフレ」に行き、この名前を付けたいとお願いしたところ、
すぐに快諾を頂き喜んでくれたんです。

建物もイメージとしては、スペインの田舎の一軒屋みたいな感じの雰囲気にしました。
オープンは、多くのお客様に来て頂き、手伝いも来て頂いて、一言で言うと本当にいいオープンでした。私は本当に多くの人に支えられてオープンが出来たとありがたく思っています。

田中
それでは、菓子職人にとって大切な事は。

山口氏
謙虚さと感謝ですね。
自分の技術に溺れたらだめだと思います。

「サンオノフレ」の開店の時は、本当に回りに助けられて、背中を押されている感じです。
感謝の気持や謙虚さを持ってないとうまく行かないと思いますね。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

山口氏
労を多くして、益を少なくですね。
手取り早く金儲けとかじゃなくて、人が見てないところで努力する、きつい事を率先してやる、無駄に思える事とか、
誰も評価してくれないかもしれないけど、結果的には歯車がうまく回って行くんじゃないかと思いますね。
私もそう言う考えはなかったんですけど、自分が実際いろんな所で修業をして、結果として分かったことです。

田中
本日はありがとうございました。