外薗氏
中学3年の頃にはお菓子の道に進もうと思っていました。
兄が調理の道に進んでいましたので、その影響があったと思います。
自分も食に関係する道に進もうと思っていました。
それが、中学3年生の頃です。
高校を卒業しまして、地元の和洋菓子屋さんに就職し、1年半ほどお世話になりました。
その当時は洋菓子専門で出しているお菓子屋はあまりなく、ケーキやパン、和菓子を出しているお店が多かったように思います。
田中
鹿児島のお店で1年半ほどいらっしゃって、その後は何処に行かれたんですか?
外薗氏
それから東京に行きました。
田中
どうして東京に行かれたんですか?
外薗氏
先輩達が、やっぱり東京に行ってるんですね。
それで刺激を受けまして、先輩からも勧められ、それで20歳の頃に東京に行きました。
最初に入ったのは「シェ・リュイ」で1年間、次に「フレンチパウンドハウス」で1年間お世話になりました。
田中
修業として鹿児島から始められて、東京へと行かれたわけですが、どうでした?
外薗氏
鹿児島の時は多少大きいお店だったので、働いているうちにこれでいいのかと思うようになりました。
結局、大きいお店だから、身に付くものが少ないのか、時間がかかりすぎるのか。
何か悶々とした感じがしましたし、やはり個人店でみっちり働きたいと思い、また、東京のお店も見てみたいと思ったんです。
東京の2年間はその意味でかなり勉強になりました。
それで、東京から福岡のフランス菓子16区に入りました。
田中
どのようにして、フランス菓子16区に入られたんですか?
外薗氏
私が入ったのが22〜3歳の頃だったと思います。
「フレンチパウンドハウス」にいらっしゃった弓田シェフがフランス菓子16区の三嶋社長とお知り合いだったものですから、
弓田シェフの紹介で16区に入らせて頂いたんです。
田中
フランス菓子16区さんに入られてどうでした?
外薗氏
私はフランス菓子16区が最初の店舗の時で、オープンして3年目の時に入社しました。
凄く気合が入ったお店で、妥協は許さないというか、そういった面では最初は圧倒されましたね。
でも、仕事をしていく中で、その厳しさの意味が分かりました。
私たちはお菓子を作る仕事、お客様に対して、美味しく、安全なものを提供しなければなりません。
これは、当然ですね。その意味でも妥協や、気の緩みは絶対あってはだめなんです。
だから、三嶋社長は厳しく、私も妥協しない姿勢をすんなり受け入れることが出来たと思います。
仕事以外では、本当に優しく、頼りになる親方的な存在です。
田中
修業時代の仕事は忙しいと思いますが、休みの時とかどうされていました?
外薗氏
東京時代には、いろんなケーキ屋さん巡りをしていました。
ただ、繁忙期には朝は6時から夜中1時、2時まで仕事で、風呂は入れないし、
朝ごはんは食べれない、昼ごはんは午後2時、3時、お店が終わって晩ご飯と、帰りにラーメン屋さんで食べる事もありました。
この時代は、ほか弁かラーメン、牛丼をよく食べましたね。
福岡では新社屋に移転した16区は、社員食堂があり、朝、昼、晩と食事があったので本当に助かりました。
田中
フランス菓子16区さんは何年いらっしゃったんですか?
外薗氏
14年間です。お菓子を作るだけじゃなくて、いろんな社会的な事や人生観であるとか教えて頂きました。
その間、1年間はフランスに行って勉強する事が出来ました。 |